Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2010年10月12日火曜日

『戦闘少女の精神分析』要旨「ファリックガールズが生成する」個人的まとめ



それでは戦闘美少女が如何にして生成したか、という本書の本論部分「ファリック・ガールズが生成する」をまとめていく。何度かこの章だけ読んだが、よく意味がわからない。度々引用されるラカンやベルクソンについて僕自身が少し理解をしておく必要がありそうだ。



この本論、最終章を展開するにあたって、筆者は二つの前提を持ち出している。
まず、想像的空間は基本的に倒錯に親和性が高いこと。「イメージ」とは表面化しているものよりも「偶発的」で「倒錯的」で「リアル」なものである。これは実際に想像してみれば分かるかと思われる。
次に大衆的な虚構表現、映画・テレビ・マンガ・アニメ等は比較的単純な欲望の原理によって支えられている。ゴダールの言を持ち出して「女と銃があれば映画は作れる」(p264,l3)、つまり、突き詰めれば大抵の娯楽的創作物はセックス&ヴァイオレンスだということ。これらの前提を基に、筆者はアニメ・漫画空間の特異性について述べている。

筆者がキーワードとして挙げるのは「無時間」「ハイ・コンテクスト」といった言葉だ。

視覚表現というメディアは、それぞれ固有の時間性のもとで機能している。アニメは漫画から「無時間性」を受け継いでいる。映画であれば、現実空間と同じく作中に一定の時間が一方向に流れている。
しかし、アニメでは時間と空間が主人公の思いや迫力を表現するためにねじ曲げられる。
例えば、変身シーンの途中で敵は攻撃を仕掛けてこないし、必殺技を放つ際にはその技名を叫ぶ時間が設けられる。瞬間が極めて饒舌に描かれるのだ。分離されればこの無時間性は何の意味も持たないが、相補的にある特定部分を描写する能力においては過剰に意味を伝達する。
このメディア特性は筆者に「かな・漢字二重表記」を連想させる。勿論、全ての言語が文字単独では意味を持ちえないが、我々日本人は同時に平仮名・カタカナ・漢字を並列的に何の問題もなく同期させて使用する。
つまり、我々は文字を読むように漫画・アニメを「読んで」いるのではないか。想像的なものを象徴的に処理するという技術を下地として積んでいるのが日本人(文化)である、という仮説により、筆者はアニメ・漫画の無時間性の証明を行っている。

また、アニメや漫画には「お約束」的要素が存在する。
セリフのみ、画像のみを追ってみても、十分な意味は伝達されない。それゆえ各コード系列は相互に補完しあう必要がある。そこにユニゾン的な効果が生まれる。筆者はそれをアニメ・漫画が他メディアに優越する「ハイ・コンテクスト性」として論じている。
アニメや漫画のハイ・コンテクスト性では、たとえそれが未知の作品であっても、内容や作品について容易に推測することができる。ハイ・コンテクストであるということは、送り手と受け手の間に距離感がないことで成立する感覚である。言語的なコードよりも、感情的なコードが伝達されやすくなる。

これらの「無時間」と「ハイ・コンテクスト」という下地により、アニメ・漫画上に戦闘美少女が生成するということが述べられた。しかし、それは何故「日本」上なのか。筆者は日本的空間と西洋的空間について考え、その対比を行う。

日本的空間においては虚構と現実という対比が十分に機能していない。
そもそもこの対比自体が「西洋的」発想に基づいているのではないか。
西洋的空間では現実が必ず優位におかれ、虚構空間はその優位性を侵してはならない。虚構があまりに魅力的になりすぎぬよう、慎重に(象徴的)去勢をしておく必要がある。
一方で日本的空間は様々な虚構に自立的なリアリティを持つことが許されている。日本空間において、リアリティを支えるもっとも重要な要因がセクシュアリティであるからだ。日本的空間においてどんな表象物も象徴的去勢を受けはしない。去勢否認は性的倒錯の初期条件であり、倒錯的対象に親和性が高いのはそのためのである。ハイ・コンテクストな表象空間は自身の「お約束」により、リアリティが失われる場合がある。
この喪失に対する抵抗のひとつがセクシュアリティである。
現実に欠くことの出来ない要素「性」を持ち込むことで、日本的空間、アニメや漫画は虚構性と現実性を同時に獲得することが出来たのである。そうした「場」を土壌として持つ、ファリック・ガール、戦闘少女たちは何者なのか。

彼女たちは戦う。欧米における戦闘ヒロインたちはマッチョイズムと同化した女性、いわば「ペニスを持つ女性」である。彼女たち「ファリック・マザー」が何故男性のように戦うかといえば、男性を乗り越えなくてはならない、打ち勝たねばならない理由があるからではないか。
小谷真理氏はそれを何らかの傷―例えば「レイプ」のような―を負っているのではないか(p313,l4)、と指摘している。対して、筆者はそうしたアマゾネス的ヒロインと逆の位置に在る戦闘美少女たちを「ファリック・ガール」と呼ぶ。彼女たちはそうした外傷が無いからこそ、ファリック・ガールなのではないか。
ナウシカや綾波レイやセーラームーンを思い出せる人はぜひ思い出して欲しい。存在の無根拠、外傷の欠如、動機の欠如という空虚さを共通点として見つけられるはずだ。
彼女たちは苦難の末戦闘技術を獲得するのではなく、ある日突然異世界に紛れ込み、なんの必然性もなく戦闘能力を与えられる。「無根拠である」ために漫画・アニメという徹底的な虚構世界では逆説的にリアリティを身につけられるのだ。

また、彼女たちは自分の性的魅力に無自覚、無関心である。にも関らず、魅力的な表象を持つ存在である。女性の、自分を可愛らしく見せるテクニックの一つとして、わざと無垢に、純真に振る舞うというものがあるが、彼女たちはそれを完全に無自覚に行える。だが、そうした性的アピールを持つにも関わらず、彼女達と性交渉を持つのは不可能だ。決して到達できない対象だからこそ、彼女たちは特権的地位を確立させる。ただでさえその無関心さは魅力を持ち得るが、受容者たちの欲望を受けることでよりその虚構世界はリアリティを持つ事が可能となる。

対象にリアリティを見出すとき、我々はその享楽の痕跡に触れている。
つまり、享楽は到達不可能な世界に置かれることで初めて、リアルな欲望を喚起する。
ファリック・ガールに対しては、われわれはまず彼女の戦闘、すなわち享楽のイメージ(リアリティ)に魅了され、それを描かれたエロスの魅力(セクシュアリティ)と混同することで「萌え」が成立する(p330,l9)。

以上で大体まとめ終えた。
非常に面白い点もあったし、いくつか疑問を感じる点もあった。僕自身、
現実に虚構を応用しようとしているような感覚を常に抱いていたので、自分が現実と虚構を混同しているように思っていたが、一応の生活を送れている限りではそうではないらしい。
そもそも、ダーガーの記述に惹かれて本書を読んだが、オタクにダーガー程の創作衝動はない。参考程度ならともかく、本書に一章分を割いてダーガーの解説を取り込む必要があったかどうかはよく分らない。
また、最終章では専門用語が多く飛び出してきて解り辛い所があり、引用や要約に止めた部分があった。もう一度勉強を重ねて、本書を読んでみたい。です。

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