Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2010年12月10日金曜日

全ての言葉を軽薄なものへ堕する『孤客 哭壁者の自伝』


僕の大好きな漫画の一つに『鋼の錬金術師』というやつがあります。
まぁ大ヒット漫画なので解説するまでも無いのですが、「努力すれば夢は叶う!」というテーマを最初の方は仄めかしつつも、「努力は叶わない事もあれば、やった以上の結果を生む事もある」という方へどんどんテーマをスライドさせていくのです。
やったらやっただけの結果が生まれる訳ではないという結論に至るからこそ、僕は少年漫画ながらこの漫画が大好きなのです。

でも、努力を重ねてもどうしようもない、自分で変える事の出来ない何かが有るとしたら?

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徳南晴一郎さんという漫画家がいらっしゃいました。
2009年の暮れにお亡くなりになったそうです。
彼には自分の手で変える事の出来ない呪わしき運命が有った。
幼児期に患った病から小人症を発症し、身長が伸びるのが140cmで止まってしまったのです。
身長が低いだけで、他人から馬鹿にされ、不当な評価を受ける。
家は貧窮し、兄弟姉妹は次々と亡くなる。
高等教育を受ける事も出来ず、絵を描いて暮らす事を志し貸本漫画家になるも全く成功せず廃業に追い込まれる。
何故自分だけがこんなにも理不尽な眼に遭わなくてはならないのか。
僕自身は体に関しては何もハンデがなく、その事に関しては産んでくれた両親に感謝しています。
だからこそ、「障害」という異質に関して下した自分なりの結論は「単なる身体的差異に過ぎない」というものでした。
欠けていたり、機能しなかったり、多かったりというのも、一種の才能であり、「違いの美しさ」を其処に見ていました。
甘かった。

幾ら言おうとも、僕が「健常者」の岸から離れて、河を渡る事は出来ないのです。
僕自身が今この瞬間考えている事・感情を完全に誰かと共有する事は出来ないように、本人の苦しみは本人しか味わう事が出来ないのです。
様々な人が居るのに「障害者は~である」と一括りに定義付けるのが根本からおかしい。
僕は障害者の理解者になった様な思い違いをしていました。

「障害者理解」について段階を踏んで考えてみると、

1.外見上違う事を認識する←無知状態

2.外見は違うものでありながら、内面は「人間」として大差ないものである←24時間テレビ

3.内面としての人間性の共通を認めるなら、違いは肌の色や髪質のような「身体的特徴」でしかない←僕

4.「身体的特徴でしかない」かどうかは他人が決める事ではない←本人

といった感じでしょうか。

1の段階の子どもが「何故違うのだろう」と疑問を浮かべた際に、
2の段階の大人はそうした子どもの反応が障害者に不快感や辱めを与えるのではないかと思って「気にするな」「辞めなさい」と嗜める。子どもは否定をした訳ではなく疑問を持っただけなのに、大人がそこにマイナスイメージを付加してしまうのは、「違う事」=「悪い事」というマイナスな思い込みがある為です。
そこを僕は=「良い事・面白い事」として、一歩踏み出したつもりになっていました。良い気になっていました。井の中の馬鹿です。

本書はそうした2段階・3段階の人達の思い込み、想像を悉く粉砕します。
元気に遊ぶ甥っ子を見て、徳南さんは思います。

「おっちゃんの人生はどこまでも負債の契約で終止している。
心を痛める願望や果しのない困災ばかりなんだ。
生きている間中は利息を払い、死んでやっと利息を返す事が出来るのさ。」(本文中)



この本に関して伝えたい事はたくさんあります。
しかし、言葉を重ねれば重ねるほど、その重厚な本書の内容に比して、評文は無意味になっていくのです。
僕が言葉を尽くすよりも、たくさんの人にこの本を読んで欲しい。
しかし、下記漫画を含め、ほとんどが絶版本で手に入れ難い。
復刊ドットコムでの投票をぜひお願いします。

徳南さんの漫画家生活晩年に描かれた『怪談 人間時計』より。見よ、この狂的なデッサンのパワー!


割と甘い生活を送っている人への衝撃。
➼言わない事、言えない事『ふたりの証拠』

弱者の怨嗟の声。
➼虐げられた者の不愉快な眼『空っぽの世界』

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