Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2011年7月11日月曜日

芸術の内側と外側『アール・ブリュットをめぐるトークシリーズVol.1:アール・ブリュット作家の共通性と個別性 斎藤環』



先日、「芸術の内側と外側」という論題で、
インサイダー・アート、いわゆるこれまで一般的に「芸術」とされてきたものと、
その価値観とは違う価値観で存在するアート、アウトサイダー・アート、
そして芸術でないモノ、とは何によって分けられるのか?という定義に関しての発表を行いました。

しかし、一応の定義はあるものの、決め手というのが結局「見る人次第」という曖昧な結論に至り、
オーディエンスからもツッコミを受け、
ぐぬぬ… となってしまったのです。

今回、斎藤先生の講演があるということで、滋賀へと足を運んでみました。
何かヒントになるんじゃないかなぁ、と思って。

写真は会場の近江兄弟学園。


別に僕はスタッフでも何でもないので、気になった所と、自分なりの解釈だけ。
まとめは公式の方でやってらっしゃると思われ。

斎藤先生と、アール・ブリュット、特にダーガーとの関係性は以下の著書に述べられているので、
気になった人や講演を見に来られた方は是非読んでみて下さい。名著。

僕がこの本を解題したもののまとめ。
➼『戦闘少女の精神分析』要旨「ファリックガールズが生成する」個人的まとめ

まず、僕の事前の問題意識として
・文化的背景を持たないアウトサイダー・アーティストに共通性があるのか?
・何故個別の作家毎に作家論が存在しないのか、デュシャン論、ドストエフスキー論のような論じ方は不可能なのか?
・明確なインとアウトの定義付けは有るのか?


斎藤先生のまず述べられた、「プレコックス感」という言葉。
おっ、キーワードなるか!!と思ったら、「感じ」を表現する言葉だそうで、キーワードならず。
この用語の詳しくは以下のページに述べられているので、メモメモ。
(http://psychodoc.eek.jp/abare/precox.html)

そして共通性・個別性を述べる為の事例として、何人かのアーティストを紹介。
ダーガー始め、ヴェルフリ、アロイーズ、喜捨場盛也、戸來貴規、Keiなど。
中でも僕がウオオ…と感嘆したのはAARON

AARONとはプログラムの名前。
確かに「彼」なら、富も名声も必要とせず、また誰からの影響も受けず、本当にただ「描く」事のみを目的として描く。
究極的に「創造のみを目的として創造するモノ」をアウトサイダー・アーティストと呼ぶなら、もう彼がベストオブアウトサイダーアーティストかもしれない、とハンマーで殴られたようなショックを受けました。
参考ページ:(http://kgt.cybernet.co.jp/viz-journal/contents/ver1/pds/aaron.html)

続けて、美術家・岡崎乾二郎の言を引用。
「究極のアウトサイダーは自然である」
彼はアウトサイダー・アートというものそのものに否定的立場であり、
この言葉の真意とはインとアウトを分ける事がそもそも無意味で、人間が創ったモノにインもアウトもねーだろ、という発言。肯定派ながら斎藤先生も彼の言葉に頷かざるを得ない所がある御様子。

また、精神病を発し、インとアウトの境界に外部から立たされてしまったアルトナン・アルトーの発言を紹介。
「私は芸術とも様式とも才能とも決別している。」

僕の発表時にオーディエンスの一人に言われて衝撃的だったのは、
「結局『アウトサイダー』と分けている所に、狂気のようなマイナスイメージが込められているのではないか?」という発言。
精神病者の芸術に着目し、その面白さに魅了され、喧伝しようとしたハンス・プリンツホルン。
そこから「精神病者」というマイナスイメージを取り払い、反文化の旗印として其れを掲げ、「アール・ブリュット」を定義付けたジャン・デュビュッフェ。
英語に訳する際に、デュビュッフェの政治的意識を取り払い、更に洗練された定義に持っていく為の英訳として「アウトサイダー・アート」を提示したロジャー・カーディナル。
僕は、彼らの動きを「ポジティヴなすくい上げ」だと思っていました。

けれどもそれらが前向きかどうかひとまずとして、
僕がダーガーの作品を見た時に感じた「面白さ」、シュヴァルの理想宮や魲万里絵の作品等に感じる「面白さ」は創っている人は違えども、何か似た「面白さ」があることは事実なのです。
それは狂気や恐怖、不安、好奇心、嫌悪、刺激、怖いもの見たさがないまぜになった感覚で、ある程度はマイナスベクトルの心の動きも混ざっています。
そうした体験を与えてくれるアートを、申し訳ないとは思いつつも、カテゴライズして、「アウトサイダー・アート」と呼ばせて欲しい、というのが僕のアウトサイダー・アートへの向き合い方です。
つまり、僕はアール・ブリュット、アウトサイダー・アートが、閲覧者にとってどのような意図があったとしても、種別として在るべきだ、という肯定派です。

で、講演の中身に話を戻します。

インサイドにある、いわばこれまでの芸術史の中に存在して来た芸術が、何故芸術と呼ばれるかと言えば、
「それを芸術と呼ぶ人が居た為」です。
勿論アウトサイダー・アートも、そんな種別を与えられたのはそれを芸術と呼ぶ人が居たためです。

しかし、特にアウトサイダー・アートにおいては、作家本人に「芸術制作」という意図が無い。
故に「それを芸術として評価する人・発見する人」が必要であり、
その作家と発見者の関係性こそがアウトサイダー・アートである
、とも言えるという斎藤先生の論。

ダーガーの作品を捨てずに、芸術分野へと紹介を果たしたネイサン・ラーナーの存在、
または戸來貴規と施設職員との関係を例挙。
普通、芸術とは作家本人が「芸術です」と言い張るから芸術と成り得る。
特に「現代芸術」と言われる分野でその傾向は顕著であり、デュシャンや村上隆等を見ても分かる通り。

そして次の定義付けが、一番僕にとってエウレカ!と叫びたくなるようなものでした。

「アート」は作家の潜在性、心の奥底を実在化しようとする動き。
思いを現実化しようとする行動の結果。
けれどもアウトサイダー・アーティストにとっての現実とは、「眼の前に在る現実」ではなく、「自分の生きる現実」。
即ち、作品世界も現実世界である、というか作品世界こそが現実なのだから、「自分の生きる現実」を「現実」として性急に実在化しようとするのが、インとアウトの分かれ目ではないか。


つまり、作品世界の現実化を求めるのがインサイダーであり、
作品世界が現実である事は自明のものとして、実在化を性急に求めるのがアウトサイダーである、
ということ。

ああ、コレが求めてた答えだ!と視界が開けたような心持がしました。

そして斎藤先生は作家以外の人間は、如何にしてアウトサイダー・アートと関わるべきか、という定義を披露して下さいました。これも結構重要かもしれない。

(1)「批評」の禁止
作家の人格性を問うたり、作品の意味性を鑑賞者が補完したり、文化的背景を求めたりすべきでない、ということ。
背景や意図無しに成立している芸術作品について、他人が語り得るモノは無いに等しい。
「作家にとっての現実」を、作家自身以外が語るなんてナンセンス。

(2)「鑑賞」の禁止
その作品について「勉強」等をして、作品以上のモノから作品を見ない事。作品そのものを楽しむべきである、ということ。

(3)「診断」の禁止
例えば鑑賞者が精神医学・病跡学・臨床心理学等の知識を持っていたとして、作品を「症状」として分析しない事。また、作家の病理が何であるか、と断定する事は作品・作家共にとって無意味であること。

(4)目撃し、関係せよ
制作者の「潜在性」が、作者固有のものではなく、受容者自身のものでもある、と意識すること。
「自分自身のコード」=「潜在性」が書き換えられる可能性があることを自覚的に触れること。

以上の四つの事柄を守ってアウトサイダー・アートに接せよ、というのが斎藤先生の教えでした。
なるほど、そもそも作家論を述べようとする行為が冒涜的なのか。
ダーガー論を卒業研究のテーマとしようとしてたんですが…

何にせよ、非常に収穫のある「講義」でした。
学術的要素が高く、ショー的要素が低い講演だった為、寝てしまってる人も結構居たように思えました。
僕自身もちょっとうつらうつらと来てしまいました。

会場側に求めるのは、もう少し質疑応答の時間を取って欲しかったな、と。
事前に挙げた問題意識を完璧に解決できた訳では無かったので、僕も質問したかったし、
実際に質問者としてあてられた人も、本当に理解出来てんのか?というレベルの質問でした。

一つ建設的だな、と思った質問は「絵画・彫刻・建築形式以外、例えば音楽や文学にアウトサイダーアートは有り得ないのか?」というモノ。
音楽や文章は、理論的構築のもとに形作られているもので、退行や倒錯とは親和性が低い。
つまり、「創作衝動」をただぶつけるだけでは形になりにくい為、今の所斎藤先生自身は見つける事が出来ていない。
もし有り得るとしたらノイズミュージックの中にあったりとか?
ということでした。

ポップスの中でも、ダニエル・ジョンソン、少年ナイフの世界観は素朴さ、ナイーブさに溢れてて、一種アウトサイダー的な感はあるかも、ということでした。
後者は僕も好きで高校生の頃から聴いてたのですが、何処まで意図か分からないへたっぴ英語により、ニルヴァーナなんかからも評価を受けたバンド。少しなるほどなぁ、と思えました。

総評としては、行けてよかった!
トークシリーズということで、次回も是非参加してみたい!
でも岩手!今んとこ無理!
といった感じです。



芸術・非芸術の定義について。
➼芸術とそうでないモノ『かっこいい自転車』

斎藤先生の「コードを書き換えた」ヘンリー・ダーガーの日本展について。
➼僕と共犯者に成りませんか?『ラフォーレ原宿:ヘンリー・ダーガー展』

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