Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2011年8月9日火曜日

作者VS作中人物『ロコス亭 奇人たちの情景』


極度に完成された物語は、現実と見分けが付かない。
そういう言い方も出来ると思います。

けれども、「未完成」だからこそ、現実と見分けが付かない物語が存在すると僕は思うのです。


本書は短編集の体裁を取り、一話完結型となっていますが、
こっちで出たキャラクターはこっちではこういうポジションになってて、という群像劇的な一つの物語に収斂される構造になっています。

手塚治虫に代表されるような、「スターシステム」が柱になっているのです。
例えば手塚作品の常連である、ヒゲオヤジやアセチレンランプ等が様々な作品において様々な役どころについているように、本書『ロコス亭』でも明らかに作中人物達はあちこちの物語を飛び回って、作中人物を演じています。

その演じている様を殊更強調してくるのが、「*(注)」の存在。
一般的な使われ方と同じ様に、彼らは一文の終了間際に登場して、その一文の句読点の様に素知らぬ顔で、さも当然の様にポチッと座っています。
一般的な使われ方なので、「其れ(その一文)がどういう事なのか」を説明する役割を持って彼らは居座っているのですが、其れの何が特殊なのかと言えば「その一文を演じている時、演じている役者は実際どんな気持ちで居たか、またその役者は通常時はどんな人なのか」という裏事情みたいなものが見開きページ左端に掲載してあり、そこへのリンクとして彼らは作用しているのです。
*何人かの人(ドン・ホセ・デ・ロス・リオスもしかり)は、どうひいき目に見ても不快をもよおすこの場面は不謹慎だ、マダム・チネラートやここで扱われているような子供は描くべきでない、と異議を唱えている。僕だって異議はあるのだが、チネラート本人が、本編のこの場面で俺は悪の権化と化すと言って聞かなかったのだ。

『チネラートの人生』

ここで「僕」と名乗っているのは、作者のフェリペ・アルファウ。
彼までもが作者という立ち位置と作中人物を行ったり来たりします。

しかし、誰がこんな無茶苦茶を望んだか。

読者が何故本を読むのかと言えば、それは知識を手に入れる為、もしくは物語に触れる為、です。
特に「小説」というジャンルにおいては、後者を目的とする人が圧倒的に多いでしょう。

で、何故物語に触れるのか、という点は、まぁ人それぞれなのですが、
読者が物語を楽しめるのは、其れが「物語」だからです。

読者にとっての現実は、自分の体感し得る現実は、物語ではありません。
言ってしまえば、自分の参加していない現実も、本に書かれている虚構も、
人は全て「客観的な物語」として捉えています。

自分が影響する事の無い、自分に影響する事の無い、何処かの誰かが動かしている話だからこそ、人は物語を楽しめるのです。
だから、読者は、例えば「小説」というものに対して、「小説という形式であって欲しい」という無意識の前提で触れています。「小説」という予定調和の中で、登場人物達に物語を演じて欲しい。
だから、其処をはみ出す様な、現実と虚構との境界を曖昧にするような「無茶苦茶」を読者が望む訳がありません。

作者だってそうです。
例えば車谷長吉のように、アゴタ・クリストフのように、ニーチェにように、
「自分の現実」だからこそ血を吐くようにして、現実を物語として編む人も居ます。

けれども、所謂物語を編む「サクシャ」という存在は、現実を切り取るのではなく、「登場人物」という虚構の存在を虚構の物語へ封じ込めるのが仕事なのです。
だから、登場人物が勝手に動く事が、「神」である自分の意図を離れて決められた役割以上の動きを見せる事が、作者にとって望ましい筈も有りません。

この本の成立を望んだのは、勿論作者のフェリペ・アルファウ。
しかし、この本の在り方を望んだのは、作者でも読者でも無く、登場人物たちなのです。
正に『作中人物』という話にはこうしたスタンスがムックリと表れていて、
作中人物、ガストン・べハラーノは現実に浸食し、作者に筋書きを変える要求まで出してきます。

虚構の住人達にとっての現実は、虚構の中に在る。
けれども、私達にとっての現実の中で幾らでも「嘘」、演じる事、お世辞を言う事、取り繕う事が存在するなら、虚構の中でも其れは有り得ます。

僕の四肢は僕の意志とは無関係に動いたように感じられた。

『犬の物語』

「スペイン」という国の在り方が緻密に、細密に描かれた本です。
しかし、其れ以上に「物語の在り方」を形にしたような本である、と僕は思います。
現実もまた、小説世界と同じ様に、不明確な、不確定な、けれども一種予定調和的な物語なのです。
そこを疑ってかかるべきではないか、と考えさせられた。
現実の現実感を疑わされた。
そうした側面を持った、危険な小説とも言えます。

『犬の物語』中の「僕」のように、あなたも意志と無関係に体が動く感触を感じた事がありませんか?
あなたも誰かに動かされているんじゃないですか?
あなたの現実が「本当の現実」である事を、あなたは証明出来ますか?

物語としては欠陥的というほど、本書は「物語」であることが度々強調されます。
でも、その欠け具合が実に「本当」臭い。
『ロコス亭』の奇人たちは、小説世界を越えて、あなたの現実を浸食しにやってきます。


物語を描く事、信じる事。
➼藤田和日郎の描きたかったドラマはココに在る『月光条例 14』

揺れる現実。
➼現実を揺らす現実感『リアリティー』





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