Subbacultcha

「サブカルチャー」という括りの下、文学・芸術・漫画・映画等について述べます。

2012年2月2日木曜日

愛と資本主義の物語『Pink』

岡崎京子の『Pink』について、
5人で語り合ったので、そのまとめ。
ネタばれ、注意。

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Wikipediaさんより、内容拝借。

Pink (岡崎京子)

主人公のユミは一人暮らしのOL。
父と継母とその娘であるケイコ(ユミの腹違いの妹)がいるが、ユミは継母が父の財産目当てで結婚したのを知っているので、継母を母として認める気になれない。
ユミはペットのワニをとても大事にしており、やさしくてきれいだったお母さんの爪の色を思い出させてくれるピンクのバラが好き。
ワニの餌代を稼ぐため、夜はホテトル嬢として男性の相手をしている。

ユミは継母の愛人である大学生ハルヲとつきあいはじめ、ユミとワニにハルヲとケイコを加えた3人と1匹の間で、ささやかな家族のような幸せな関係が築かれてゆく。
しかし、ハルヲがユミとつきあっていることを知った継母の差し向けた使いがワニを誘拐する。
ユミはワニのいない味気のない日常に耐えられなくなり、ハルヲが小説で文学賞を受賞することで、その脱出実現の運びが整う。
しかし継母はワニを殺し、鰐皮のバッグにしてユミのもとに送りつけ、記者の無理な取材に抵抗したハルヲは路上で車にはねられそのまま死んでしまう。

●ワニはユミにとって大事じゃ無かったのか?
終盤で、ワニを殺されたことを知ったユミは、父・継母・ケイコの暮らす家へ向かいます。
継母を殴った後、何か「ワニが殺されたことから産まれた継母への憎しみ」のようなモノは、スゥッとユミから消えてしまうような表現があります。

そもそもユミがホテトル嬢をしてるのはワニの餌代を稼ぐためじゃなかったのか?
必死で働いて、時間もお金も使ってたのに、そんなにあっさりと「ワニ」の鞄使っちゃって良いの?

ここで重要になるのがあとがきに岡崎京子自身が載せているキャッチコピー。
この物語は「愛と資本主義」の物語である、と。


「ワニ→カバン」という変遷は、イコール「愛→物」に変質する過程。
愛は交換可能なモノ、
マルクスが述べる所の、貨幣がそれそのものの価値ではなく、他の商品の価値を表現可能なモノとして扱われる、商品生産社会の「等価交換」の原則に埋め込まれた実体の無いモノであるのと同じ様に、愛も実体は無くとも、価値の有るモノとして在る。
つまり、この物語において、「愛」は存在そのものが無いのでは


●タイトルの示す「pink」とは?
ピンクとは、ユミの亡くなった母親の、マニキュアの色。
永遠に彼女が追い求める「幸福」を象徴する色です。それは「愛」の色でもある。
永遠にユミが失ってしまった母。イコール幸福。至上のモノ・柱とするべきモノが無くなってしまったことで、彼女には守るべき価値観が無くなってしまったのかもしれません。
だからこそ、彼女が確立した「幸せ至上主義」のような考え方。

にもかかわらず、何度もホイホイと安易に引用される、「幸福」「愛」「ピンク」。
その安易な単語の使用方法は、却ってそれらが薄っぺらいモノである、と岡崎京子が主張しているようにも思えます。

逆に、彼女はあとがきに、愛も資本主義も、手強く恐ろしい怪物のようである、と記しています。
それはユミの愛情の対象であった「ワニ」を指し示す言葉でもあるのでは。

●本作における「愛」の所在
「幸せは簡単なものだ」とユミは述べます。
その軽薄そうな言葉をなぞるように、彼女は自分の身体を使って金を稼ぎ、その金でわざわざ都会のマンションでワニを飼う。

ただ、彼女が本心から、無鉄砲に無秩序に生きていたのか、というとそんな事は無くて、
時折彼女を襲う「不安」が彼女を押し潰そうとしているような描写があります。
その不安を抑え込んでいたのは、彼女が愛を注いでいたワニ。その愛に、真実性・絶対性が無くとも、彼女にとってはそれが「愛」だったのでは。(特に作中に「愛」の定義は無いが、一方的なモノ・自己犠牲的な感覚が省かれたモノを愛では無い、とするならば、ユミにとってワニへのそれは愛では無い。)
ハルオはその愛を結局ラストに到るまでの道のりで勝ち取ることは出来なかった。
唯一「真実の愛」のようなモノで結ばれていたのは、継母と娘・ケイコだけなのではないか。

●80年~90年代にかけての虚無
印象ではあるけど、2012年現在の若者向けのヒット作(まどか☆マギカ、化物語、輪るピングドラム等)が「主体的にゴールを勝ち取りに行く」ようなエンディングを目指すのと比べて、
岡崎京子作品や村上春樹の『ノルウェーの森』、新世紀エヴァンゲリオン等は作品のテーマとして「虚無」があるような気がします。

簡単にまとめてしまうのはまずいけれども、たとえば「バブル期」という非常に明るい、栄えている環境において、「色んな事に気付いていた人達」、村上春樹や岡崎京子といった人達はその時代を取り巻く「虚無」に気付かざるを得ず、それらを作品の題材としていたのかも。

2012年の今となっては、そんな「虚無」という雰囲気は全く社会の裏側にあるモノでもなんでもなく、誰でも気が付いているモノに過ぎません。
だから2012年現在の僕たちは、そうした状況を破ってくれるような何かを、創作物に求めてしまうのかも。


力強く、勝利を掴み取れ。
➼決して消えない光がある『正義隊 4』

女と性の、気持ち悪さについて。
➼女を追う男、性が呼び起こす恐怖『グッバイ艶』と『密会』


中身は一緒。右が旧版。



映画化、楽しみ半分。



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